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題名:得は弧ならず 名前:大峰白雅
2010/10/27(Wed) 02:57 No.23  HomePage


23の画像を原寸大表示します 今晩は。

新潟から千葉に越してきて、早いもので、もうすぐ2年になります。
北の町から、まっすぐ南下して、図らずも道惠さまと同県人になったことに喜びを感じていますが、他に何の縁故もなく、さて、となると知己がないのは少しばかり淋しいことですね。

年に1度の中学校の同級会が伊豆であるとの誘いが来ました。
今日、幹事からの電話で、同級生の一人が同じ茂原市、それも、5キロくらいしか離れていないところに住んでいることが分かりました。

伊豆まで、車に同乗させてくれるそうですが、実に、48年ぶりにあう奴です。

さて、つくづくと思いました。

西遊記に孫悟空が筋斗雲に乗って釈迦の掌を飛び出し、かなり離れた先にある、大きな柱を見て、もはや釈迦の手から飛び出したつもりで、得々と「到聖天大聖」と大書して戻ったところ、柱と見たのは釈迦の指だったと言う話があります。
人というものは結局、仏の手の中で踊っている小さな存在だということです。

生きている喜怒哀楽の総てが、どうあがいても仏の法網の中の出来事とすれば、小さな悩みにくよくよする事無く、悩みの一切を仏に任せて、のうのうと、ゆったり過ごせばよいように思います。
居直りと言うと言葉は悪いですが、どうせ何ごとも仏のはからいと思ってしまえば、小さなことにくよくよしないで、他人にも優しくなれるのではないでしょうか。
そう思うことが、人が仏の一部になり、一体になる近道に思います。

友が一人もいないと思っていた土地に、同級生が居た。
そのことから連想して、いろいろと感じるものがありました。
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画像は、私の愛蔵する「講談社の絵本-孫悟空」です。



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